境内散歩 -達磨さまー

本堂中央に釈迦三尊像が奉ってありますが、その向って左側に達磨様が奉ってあります。ダルマさんというと、にらめっこや、七転び八起き、張子のダルマを思い浮かべるほど、日本の生活に密着した存在ですが、実は達磨様は中国に禅を伝え、中国禅宗の初祖といわれてた実在の人です。僧名は菩提達磨、菩提は「悟り」達磨は「教え」を意味する古代インド語です。禅宗の教えを中国にもたらしたのですが、中国にはまだ受け入れるだけの下地がなく、少林寺で9年間壁に向って座禅をし続けたのです。この座禅の姿が手足のないダルマ人形になったのです。が、確かな記述が少なく、その一生は謎に包まれています。

言い伝えをまとめてみますと、本名は達摩といい、西域の国、香至公国王の三男として生まれました。お釈迦様から27代の般若多羅尊者の名声を聞き、国王は宮殿に招き宝珠を贈りました。お礼に「この宝珠に勝る宝物はありますか」と3人の王子に聞くと、「これは無上の宝で、これを受けるにふさわしい方は尊者のみです」と二人の兄は答えました。が、「この珠は宝物に違いはありませんが、法珠に勝るものはありません。正しい教えがこの世の至高の宝です。尊者様が教える道こそこの世を照らす光明であり、一切衆生の心を明るくし、正しい生活の根本となる尊い宝です」と答えました。尊者は感心し、出家求道を進め、国王も承諾しました。国王が急逝するとclip_image002出家し、尊者の弟子になり菩提達磨の名を授かりました。

師匠に従い40数年厳しい修行と教理の研究に没頭しました。一人前と認められたのですが尊者は「許しを受けたからといって教えを説こうと思ってはならぬ。私の元で悟り後の修行に励みなさい。私の死後インドをくまなく歩き、正法の布教をしなさい。私の没後67年後には中国に渡り、正法を伝えなさい」と言い渡しました。

尊者の死後インドでは仏教が6宗に別れ、互いに反目するようになりました。達磨は各宗を訪れ正しい教えに導きました。自国では父と長男が逝去し、次男が国王となっていましたが、邪教に心酔し、仏教排斥を始めました。弟子に正法を説かせ、王を起伏させると共に、国王も達磨の存命を喜び、仏法の護持を近い、達磨を城に招きました。伝道生活67年、いよいよ中国への旅立ちです。

達磨は単身商船に乗り、タイ、ベトナムと航海を続けましたが、ある時はスマトラへ、あるときはボルネオへと流され、3年後にようやく広州湾に達しました。この時すでに100才を越える高齢となっていました。当時の中国は梁(りょう)の時代で武帝の統治下でした。到着は520年9月21日といわれています。高名な達磨の到着を聞き、武帝は金陵の都に招きました。11月1日都に到着した達磨さまと武帝の有名な問答が始まります。「無功徳」「廓然無聖」「芦葉の達磨」「面壁九年」「慧可断臂」と続きますが、次号に連載します。