青龍山全久院の歴史

豊橋全久院時代
Toyohashi zenkyu-in era

戸田家の菩提寺として
As Toda-ke family temple

全久院は曹洞宗(禅宗)に所属し、福井の永平寺と横浜の総持寺が本山です。また総持寺の直末で、本山と同格に弟子を養育できる「格地」資格を持つ格式の高い寺院です。
戸田家の菩提寺として江戸時代に建立され、徳川家家臣として三河国(現在の愛知県)が拠点でした。

戸田家一代から五代目までは愛知県渥美半島豊岡の長興寺に葬られており、六代目は二蓮木、現在は愛知県豊橋市の全久院に葬られています。

江戸時代の豊橋全久院は新城市泉龍院の輪番寺(本寺の住職を代わる代わる勤める幾つかの末寺のこと)でした。泉龍院は二百以上の末寺を持つ大きな修行道場で、豊橋全久院は末寺筆頭でした。そして戸田家が移封されるごとにその地に移されてきた歴史を持ちます。

慶長八年(1617年)、戸田(松平)丹波守康長が高崎より移封。松本に全久院が建立されました。墓所には丹波塚、お塚と呼ばれ、現在の県2丁目にあります。

寛文五年(1665年)7月11日、宗門取締りにより松本全久院を愛知県新城市大洞山(おおほらさん)泉龍院の末寺とし、また豊橋二蓮木の全久院を松本全久院の末寺としました。

I belong to Soto sect (Zen sect), Eiheiji Temple in Fukui and Souji-ji in Yokohama are parents.
Established as the Toda-ke family exclusive temple in the Edo period.
Toda-ke is based in Mikawa no kuni (current Aichi).

The Toyohashi zenkyu-in in the Edo period is a child temple of Shinshiro-shi senryu-in.
As the Toda-ke moves, zenkyu-in has also been transferred.


松本全久院時代
Matsumoto zenkyu-in era

寛永十年(1633年)戸田家は松本を離れ、再び全久院が松本に戻るのは享保十年(1725年)、六代戸田光慈(みつちか)が三重県鳥羽より封任されるときです。松本市本町春了寺跡に全久院が建立され、二一世明極即証大和尚を再興開山としました。

二二世是妙不伝大和尚は叢林、つまり修業のための道場を開き、全国九ヶ寺の叢林の中でも厳しい道場として有名でした。二七世端岡珍牛大和尚は永平寺開山道元禅師の絵巻を自筆で版を起こし、永平寺高祖行状記二冊を出版したほどの禅画の大家でした。

三二世雲生洞門大和尚は大本山総持寺独住第一世となられた奕堂禅師ほか、多くの弟子の師として聞こえが高かったのです。

In 1633, toda-ke left Matsumoto, the whole Hakodate returned to Matsumoto again in 1725, when toda mituchika came back from Mie prefecture Toba. Re-built in Matsumoto-shi honmachi.


廃仏毀釈と廃寺
anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji era

九代目戸田光則(みつさだ)は明治ニ年版籍奉還後、松本藩知事となり、明治四年天皇の即位に伴い、神道を国の基礎として仏教を廃する廃仏毀釈を断行。松本藩内の全寺院を廃し、僧侶にも還俗を強制しました。菩提寺である松本全久院を真っ先に廃し、その跡に開智小学校を建てました。このことは明治五年、学制発布以前に行なわれたとして、開智小学校は「小学校教育発祥の地」として教育史上重要なものとなります。

最後の住職三五世巨海意龍和尚は豊橋全久院金牛(きんぎゅう)和尚に、道元禅師の御親筆、「正法眼蔵山水経(国宝)外六巻(重要文化財)」ほか多くのお経本とともに、法脈を引渡し松本全久院を去りました。

Toda Mitsusada became Governor Matsumoto in 1872 and performs anti-Buddhist movement.
Abolish all the temples of Matsumoto, forced monks to close business.
Matsumoto zenkyu-in which is a family exclusive temple was abolished first.
I built Kaichi elementary school on the site.


出雲崎全久院時代
Izumozaki zenkyu-in era

松本を離れた意龍和尚は仏像や仏具やお経とともに、生まれ故郷の出雲崎に難を逃れ、全久院二世光国舜玉和尚が建立した妙広庵に身を寄せました。数年後、災害で倒壊すると、当地の回船問屋佐藤一族や、松本の篤志家によって出雲崎全久院が建立され、現在に至っています。

The last monk leaves Matsumoto with Buddha statue, Buddhist instrument and sutra.
I moved to Myoukou-an in my hometown Izumozaki (Niigata Prefecture).
A few years later, collapsed due to a disaster. But thanks to believers izumozaki zankyu-in is built.


明治の復興を経て
After the revival in the Meiji era

松本全久院の再建は安達達淳和尚によって行なわれました。大町の霊松寺住職で、廃寺に関する有名な逸話が残っています。廃寺の話をつけに来た役人が地獄極楽の有無を問いただすと、和尚は白装束に改め短刀を乗せた三宝を持って現れ、

「地獄極楽はあの世にある。見たいなら共に腹を切ろう」

と言ったところ役人は逃げ帰ったそうです。しかし結局謹慎を命ぜられ、軟禁状態になったのですが、密かに硯水寺の屋根裏部屋に逃れ潜み、さらに上京し太政官へ直訴、廃仏毀釈の非を訴えました。

こうして廃仏毀釈も一年で収まり、仏教復興を祈願し、廃仏毀釈の象徴とされた松本全久院の再建に取りかかりました。

現在の全久院(松本)の敷地は瑞松寺廃寺跡で師範学校建設予定地だったものを筑摩県(当時)より買取り、大町の青柳寺を移築しました。当時は新たに寺院を創設することは禁止されていたため、苦肉の策だったのです。そして明治九年(1876年)五月再興開基仲間、共有台を結成し、明治十年(1877年)四月大本山総持寺貫主奕堂禅師を迎え開山とし、青龍山全久院と改め総持寺直末として正式に再建されました。この事をきっかけにその後、各宗の寺院の再建が始まりました。

明治二十九年(1896年)本堂は失火により消失。五世鈴木良音和尚の晋山式が行なわれた明治三十九年(1906年)六月、再建されました。しかし、僧堂、三門や鐘楼は再建されず現在に至りましたが、平成五年(1993年)に鐘楼付三門として改築されました。

The reconstruction of zenkyu-in (Matsumoto) was done by Reishou-ji monk of oomachi.
There is a famous story with the abolition of the temple.
When the person in charge who came to talk about the abolition of the temple heard the existence of hell paradise (Jigoku Gokuraku), the priest wore white coat and brought the stand carrying the dagger.

“Jigoku Gokuraku is in Another World. Let’s Harakiri together if you want to see it.”

As I said, the officials ran away.
However, the order of punishment came out, and it became underwriting.
Secretly hidden in the attic of Sekisui-ji, went further to Tokyo and appealed to the person in charge, corrected Haibutsu-Kisyaku’s mistake.

And in 1877, as a result of the activity, it was officially rebuilt as Seiryusan Zenkyu-in.

But in 1896, Hondou disappeared by the fire. Rebuilt in 1906. The monastery, the Sanmon, the bell tower could not be rebuilt. 1993 Sanmon renovation.


全久院は今
Zenkyu-in is now

初釜表千家茶道
Omotesenke Cha-do(Teaism)

全久院では表千家の茶道教室を開いています。毎年1月15日は初釜といって、稽古始めのお茶会を開きます。お弟子さんやお客さんが80人ほど集まり、手造りの懐石料理で正月を祝います。また、大寄せ(おおよせ)茶会は例年11月3日に行なわれます。濃茶、薄茶、立礼、点心席が設けられ日ごろの稽古の成果を発揮します。中信地区から300人程のお客様が集まり茶道の神髄に触れて行きます。

Omote senke teaism seminar is open. Every January 15th is hatsugama. We hold a tea ceremony beginning at training.
About 80 students and customers gather, celebrating the New Year at handmade kaiseki ryouri.
Also, the ooyose tea party is held on November 3 every year. Koi-cha, usu-ccha, ryu-rei, tenshin omotenashi. About 300 people gather.


ボランティア活動
Volunteer activities

曹洞宗には東南アジアを中心に海外援助を行なう曹洞宗国際ボランティア会があります。その会の運営にたずさわり、様々な活動をしています。タイ国やカンボジア国に図書館や小学校を造るなど、人作りのための援助をしてます。国立カンボジア舞踊団の松本公演に協力しました。

There are international volunteer organizations in Soto Buddhism that provide overseas assistance mainly in Southeast Asia.
I am helping with management and doing various activities.
I am helping to build libraries and elementary schools in Thailand and Cambodia.
Cooperated with Matsumoto performance of the National Cambodia Dance Company.