全久院の開山様

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本堂をさらに進むとその裏に開山堂があります。廃仏毀釈のあと全久院を復興してくださった、復興開山様の像がその正面に安置されています。「勅特賜弘済慈徳禅師栴崖奕堂大和尚」(こうさいじとくぜんじせんがいえきどうだいおしょう)が本名です。名古屋の平野甚右衛(織田信長の家臣の末裔)の第3子として、1805年正月元旦に生まれました。8才の時得度し、厳しい修行を続けました。18才の時大病していった言葉に「死して叢林に在るは先聖の美とする処、願わくは骸骨を清浄の地に埋めん」とあります。29才の時松本の全久院に安居し、32世洞門和尚について修行をしました。当時全久院は長崎、加賀、美濃、松代の叢林に並ぶ厳しい修行道場でした。12月一週間の特別修行の時、ついうとうとしてしまう自分に嫌気がさし、寺の側に流れる女鳥羽川に入って一晩中坐禅をしたと伝えられています。また、禅師は身長6尺と大柄で、二俵の米俵を軽々と米蔵に収めるのを、松本城の倉係りが見物に来たともいわれています。

明治維新の廃仏毀釈に対して、「神仏は之を輔けて並び行わる」と全国の諸侯に建白書を送りました。また神官が「仏教には地獄極楽を説くがその両者は何処にあるか」の問いには「諸君が謂う高天原は何処にあるか。地獄極楽は高天原のすぐ隣にある」と答え、堂々としておられたといわれています。明治3年66才で大本山総持寺禅師の勅命を拝受し、明治10年安達達淳(全久院再興2世)の拝請を受けて73才の時全久院の再興開山となりました。全久院を振り出しに、茅野の三光寺、林の広沢寺、などの授戒会に巡教しました。75才にて遷化されています。師の弟子は1046名を数え、永平寺の禅師様や全久院4世沖津元機和尚などを輩出しました。こ この禅師様を開山としておまつりしております。

 

全久院報 平成18年7月号より