ミニ知識 前号では道元禅師がお生まれになってから、中国で修行されるまでを紹介しました。今回はそれ以後の道元禅師をご紹介します。
帰国 天童山景徳寺での修行を終え、帰国にあたり如浄禅師より「深山幽谷に住し、一箇半箇を接得せよ」のお言葉をいただき、1227年安貞元年7月ごろ中国を出発、明全の舎利を懐いて日本への帰途に着いた。8月現在の九州大宰府に着き、建仁寺に入った。
建仁寺 講師的立場で3年間勤めたが、京都五山といわれ、叡山の末寺だった建仁寺だったが、厳しい叢林生活は色あせ、栄西や明全のころの面影はなく、厳しく仏道を求めようとした禅師は帰って叡山の圧力でこの寺を追われることになった。禅師にとって建仁寺は「普勧坐儀」の撰述始めたこと、禅師の名声を聞いて訪れた懐奘(後に永平寺二世となった)と面会したこと、永平寺開山の檀那となった波多野義重と交渉始まったことにその意味を見出すことができた。
観音導利興聖宝林寺開創 道元禅師の帰朝後の活躍は興聖寺開創から始まったといえます。1233年天福元年極楽寺を観音導利興聖宝林禅寺と改称、興聖は聖道の興隆と国家の安寧を、宝林は中国禅宗の曹渓の宝林寺に達するの意味で名づけられた。 法堂は正覚尼により寄進されたといわれている。正覚尼は道元の父通親の妹で、源実朝の妻だった。実朝は頼朝の子で頼家の弟。頼家は二 現在の興聖寺の山門
実朝は三代将軍(12才)となったが、頼家の次男公暁により父の仇として殺された。公暁も実朝の首を掲げた帰りにまた殺された。道元禅師の父、通親と頼朝は不仲だったが、実朝とは仲良く、よって妹を嫁がせたが、実朝の死後京都に帰り、東寺の近くに大通寺を建立し出家した。このように道元禅師のごく近くでも朝廷や宗教界の暗躍があった。
現在の興聖寺 {興聖寺での活躍は次号へ}
平成17年6月号より