山門を入りすぐ回廊を右に曲がり突き当たったところにお墓の入り口がありますが、そこに安置されている のが烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)です。浄、不浄、浄穢不二(じょうえふに・浄さと穢れの垣根を越えた世界)の三時に住み、物の不浄を食い尽くす仏様です。
この仏様には神通力があり、三千大千世界(仏の世界)を振動させ、天宮龍宮諸鬼神宮を砕き、ひとたび悪鬼や穢物を指差すと、これらのものは全て命を育む母なる大地に変わってしまうと言われています。諸仏が悟りをひらくときに力士となってもろもろの悪魔を退散させることを誓ったといわれ、その神通力により諸の悪鬼は発心して如来の下で修行に励むようになった、とお経に書かれています。
また不浄金剛の別名を持ち、あらゆる不浄を清浄に転じるといわれ、烏瑟沙摩法という密教の祈祷修法により蛇の毒や悪鬼のたたりなどあらゆる不浄なものを取り除くことができるといわれ、この明王は不浄除けの本尊として厠(トイレ)に奉られています。
さらに烏瑟沙摩明王経には、身体は赤色で怒りの形相をしている。目は赤色で密目(みつもく)といわれる狸のような目をしており、髪は黄色で炎のように上がっています。持ち物は一定していませんが、杵(しょ)、剣や棒・金剛鈴・弓、宝輪、数珠を持っています。手の数は2,4,6,8本など様々であったり、国宝や重文に指定される作品はないなど、朝廷などの公の信仰を受けたとは考えられず、個人や民間の純朴な信仰の対象になっていたと考えられます。
わたしの小さい頃、全久院の周りは天神町といわれ、芸者さんの置屋がたくさんありました。その芸者さんたちがひっきりなしにお参りに来たのを覚えています。彼女たちが日ごろ抱いていた様々な思いを浄化していたんでしょう。お寺の片隅にも表には現れない様々な信仰が、ひっそりと息づいていました。こんな小さな仏様にも救いを求めお参りに通っていた時代と、ものはあっても殺伐とした現代と、どちらが人間らしく生きられているのでしょうか。この仏様の憤怒のお顔は何を現代に訴えかけているか、しっかり考えなくてはなりません。