茶道コーナー

200805291458.jpg

父が始めた茶道を私の代で終わらせてはと、やっと最近重い腰を上げて、茶道関係の書物を読み始めました。

まずは茶道の歴史を知らなくては。するとそこにはとてつもない複雑な世界が広がっていました。

政治、宗教、文化、生活、そして人間関係が綾のように織りなされていました。

その一部をご紹介します。

足利時代は中国との貿易が盛んになり、中国の絵や茶器を飾り立てる茶が流行しました。

特に将軍足利義政は政治に関心がなく、借金してまでもこれらの名品を収集しました。

数千点に及ぶ名品は東山御物と呼ばれ今日まで伝わっています。

織田信長の時代になると、貴族の茶は廃れ、大名の茶と庶民の茶が主流を占めるようになりました。

信長は権力得ると茶道具の名品を集め、また戦争の功労者にはこの茶道具を与えました。

国一つの功労が茶入れなどの茶道具一つ渡すだけという、今では信じられない価値を茶道具は持っていました。

彼は茶道を政略の道具にしたのです。
戦争に不可欠な武器などを仕入れたのが堺の商人で、彼らが経済力を持つと、庶民の茶が広まりました。

ここで活躍したのが千利休の師匠、武野紹鴎でした。利休を含め多くの弟子を育てながら、中国の名品ではなく、「侘び」という日本独自の美感を育て、床の間には日本の禅僧の書を掛けるようになりました。

秀吉の時代はこの大名と庶民の茶が成熟期を向かえ、その頂点が千利休でした。

利休の7高弟の一人がキリシタン大名の高山右近でした。

宣教師も日本において茶道を勢力拡大に利用する中、右近は清廉潔白で信長から「高山はさながらキリシタン坊主だ」とも言われる程で、その人柄がわかります。

禅に基づく茶道とキリスト教の教えの間で、右近の心の中にどんな葛藤があったかは想像に絶するものがあります。

利休はキリスト教への迫害が強くなった時「表面は改宗したように装いなさい」と伝えたと言われています。

戦争が頻繁に起こり、死が常に眼前にある武将たちにとって、禅の思想に基づく茶道は心のよりどころとなったのでしょうが、右近にとってはキリスト教信仰とまったく異質な根底を持つ茶道、それを自分の心の中に取り込んでいる壮絶さを感じずにはおれません。

ちなみに右近は徳川2代将軍秀忠がキリスト教徒をフィリピンに追放したとき、全国の信者と共に4隻の船に乗り長崎からマニラへ渡りました。

翌年熱病にかかり亡くなり、63才の壮絶な人生を閉じました。

一人の天才が多くの弟子を育て、その弟子たちは庶民に支えられ文化と言う大きな波を作り出してゆきます。

その波を為政者たちが利用し、その荒波を庶民は乗り越え新たな文化を生み出してゆく、そんな縮図がこの当時の茶道であったのです。

政治、経済、文化、宗教、その中に翻弄されながらも、輝き、そしてもがき苦しむ、そんな人間の生き様が茶道だったのです。
甘さの中でしか物が見られない美感を持つ現代の私たちと大きな違いを感じます。

初釜 茶道の稽古はじめは、その年初めて釜を掛けるので初釜と言います。今年は忌中ですので取りやめます。

昨年は何か予感したのか、俊浩が初めてお弟子さん(といっても皆先生に当たりますが)の前で点前をしました。
父はこのころから体調を崩していたので、席に出てくることはありませんでした。
本当は彼の姿を見てもらいたかったと、今になって思います。

200805291454.jpg

初釜の10日前、突然「俺に点前を教えろ」と俊浩が言い出し、1週間の特訓で茶を点てました。

その後彼は駒沢大学を中退、大本山総持寺の修行に入りました。父が導いていたのかとふと考えます。

松本城茶会 昨年も花見茶会、市政100周年茶会、月見茶会、10月恒例のお城茶会と、毎週のようにお城に通い、茶を点てました。茶に関わる時間が大分増えたように感じます。

習い事の世界はどこも同じだと聞いていますが、表千家も最近急に高齢化し、人数が減り、若い人の稽古離れが進んでいます。私でも若くて動きの軽いほうに属しているため、道具を運んで、場所を選び、道具を置いて、茶を点てられるようにと動き回ります。