座禅の前にお話しする、「従容録(曹洞宗の座禅の手引書)」より今回は「第十八則 趙州狗子」のお話をします。
中国唐代を代表する禅の巨匠、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)(778-897)は120才まで現役で弟子を導いた中国屈指の禅僧です。中国に1700あるといわれる公案の中で最も有名な考案です。趙州にある修行僧が聞きました。「狗子(犬)に仏性(仏のいのち)がありますか」趙州は「有」と答えると、修行僧は「おかしなことだ。考える力のない皮袋(ひたい)に仏性があろうはずがないでしょう」。趙州は「この世の全てのものは仏性の表れだということをわからぬとはなあ」。すると他の修行僧がまた同じ質問をしました。趙州は「無」と答えました。僧は「全てのものに仏性があるというのに、無とは変なことを言うものだ」。趙州は「業識(因縁によって仏性が有であったり無であったりすること)の有るという在(ある)が体得できていない」と答えた。という問答です。同じ質問に答えは「有」となったり「無」となったり、ちんぷんかんぷんの禅問答です。禅問答というと、同じ質問に一見正反対に見える答えが返ってきます。ですからまさに典型的な禅問答です。
この問答には仏教のすべての教えが凝縮されています。狗子自体は「有」の存在です。つまり仏教の根本的な教え「縁起(全ての存在はこの大自然の条件と条件が重なって初めて存在として現れる)の法」によって存在しているのだから、狗子は仏法の説くまま存在しているから、仏性そのものであるから有と答えたのです。この「縁起の法」は次の3つのものから成り立っています。
第一は自然を認知する人間の側の五縕〔色(体)、受(体の中の感覚する作用)、想(感覚したものを想い、考えとして取り込む)、行(取り込んだ考えを形に表す)、識(形にすることで認識となって存在する))と、第二は認識される側の大自然である四大〔地(硬いもの)、水(液体)、火(熱)、風(気体)、空(それらのものをコントロールする自然の法則)。この1と2を連動させるのが仏の法で三法印(三つの法のしるし)です。第一は諸行無常(常に変化していて、固定的な実体はない)第二は諸法無我(なににも実体はないから執着するものもない)第三は涅槃寂静(心の平安が訪れる)。このように五縕、四大、三法印、縁起の法により仏性の世界が現され、狗子は仏性として形を持ち現されたものということがわかります。
次に四諦〔苦(苦しみとは何か)集〔苦しみの原因〕滅(苦しみを亡くす方法)道(苦しみのない生き方をどうすべきか)という苦を除いていかに生きるべきかを説く教え〕と八正道〔正しい見(見方)、思惟(考え方)、語(言葉)、業(行為)、命(生活)、精進(努力)、念(意識)、定(統一された精神)〕によって、執着を離れ、小さなことに、そして最後には仏にも固執しない生き方を説いています。狗子に仏性があるかなどと、こじつけの、固執したものの考え方から抜け出す生き方を「無」という答えで教えたのです。
このように「趙州狗子」には、五縕、四大、三法印、縁起の法、四諦、八正道という、これが仏教の教えの全てといえる教えが全部尽くされています。犬は仏の法によってこの世に存在したと言うことからは、仏性は有る(有仏性)。しかし、あるかないかにとらわれるような固執や、表面面の禅坊主臭さは生き方として必要ない(無仏性)。今この大切な瞬間を、自分として最大に生きるのみ、との教えがこの「趙州狗子」ということになります。仏の法は大変複雑難解で、いかなるものであるか見極めることは困難を極めます。そしてそれを自分の生き方として取り込んでゆくと口で言うことは簡単ですが、厳しい修行の末にかすかに見えてくるのが私たち凡夫には精一杯のところでしょうか。しかしあきらめずに一歩一歩進むしかありません。