初釜

今年は1月10日に行いました。初釜は今年の最初の茶をお弟子さんに振る舞い、一年間の稽古を充実したものにとの気持ちを整える大切な行事です。本山から特別許可をもらい、俊浩に休みを取らせ、私の変わりに濃茶を点ててもらいました。彼は修行に行く前に薄茶までは点てられるようになっていましたが、濃茶の作法は教えてありませんでした。初釜の点前は、炉で台子で皆具という一番難しい点前です。本番まで3日しか稽古の時間が取れません。一日目は本人も何を教えられているかもわからない状態で、袱紗や濃茶入れの扱い、濃茶の煉り方など丸暗記させて、2日目からは10回づつ点前をさせました。赤ん坊の頃から茶室で遊んでいて、お茶が大好きで、今でもケーキより和菓子のほうが好きだというだけあって、3日目にはすらすら茶を点てることができました。何とか茶道も後を継いでもらえるかも知れません。

clip_image002 私も父の代から、茶道では必ず礼儀として使われる扇を初釜で配っていましたので、今年の扇を書きました。禅語に「柳は緑、花は紅」とあり、柳緑花を字で書き、梅の絵を描いて紅を表しました。この扇を一年の思いをこめて、皆さんに差し上げました。柳は緑、花は紅のように、それぞれの力や個性を精一杯磨いて、自分らしさに気付き、磨き、精一杯生きる、そんな一年であって欲しい、そんな稽古をつんで欲しい、という意を込めました。今年一年茶に望む私の気持ちを表したのですが、そんな張り詰めた稽古ができる一年にしたいと思っています。

三千家 茶席や法事の席で「表千家と裏千家と何が、どう違う?」とよく聞かれます。詳しいことまで知りませんでしたので調べてみました。元々は「千利休」が始めた千家流の茶道が元で、表、裏と別れていたわけではありません。その茶を継いだのが子供の「少庵」で2代目。3代目を継いだのがその子供の「宗旦」でした。千家の中心になる茶室は「不審庵」と名付けられていましたので、「不審庵を継いだ」とされました。宗旦が60才の頃、不審庵を3男の宗左に継がせ、自らは不審庵の裏に「今日庵」を建て隠居しました。以後4男の宗室と伴に、茶をたしなみました。なお、2男の宗守は宗旦の父、少庵の隠居所「官休庵」を継ぎ、武者小路千家としました。 官休庵は石川丈山が広島浅野家を辞退、宮使いをしないという意味で名付けた茶室で宗旦に贈ったものです。石川丈山は愛知県生まれで、祖父以来徳川の武士でした。32才の時大阪夏の陣では腸チフスにかかり高熱を発しながらも豊臣陣営に切り込み、敵将3人を切ったほどの武士でしたが、漢学を学び、「日本の李杜(李白・杜甫)」と言われました。浅野家を退職後、京都一乗寺に詩仙堂を建て、自然を友に隠居生活し、煎茶をたしなみ、煎茶道の祖といわれた方です。

なお宗旦は公家や大名に近づかず、華美な茶に反抗し、利休のわび茶に終始し「こじき宗旦」と呼ばれるほどの生き方をした茶匠でした。81才でなくなり「虚空めが 虚空に空と 生まれ来て また空くうと なる鐘の音」という自分の生き方に厳しい辞世を残しています。

このように、3男・4男・2男に継がせた家が、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家となり今日に至っています。不審庵と今日庵の名前の由来ですが、大徳寺古渓和尚が利休に贈った偈「不審花開今日春(不審 花開く 今日の春)」より付けられました。

clip_image004今日庵の由来には興味深いエピソードが残っています。大徳寺清厳和尚は宗旦と親交が篤く、ある日宗旦は清厳和尚を今日庵に招きました。なかなか来ない和尚を待ちかねて外出すると、すれ違いに和尚が到着。宗旦の妻は障子を貼っているところで、和尚はその障子紙に「懈怠(けたい)の比丘、明日を期せず」(怠け者の私は明日が約束できないから今日やって来たのに)と書き残しました。帰宅した宗旦はその障子紙の余白に、「懈逅の比丘明日を期せず」(偶然出くわす僧では当てにならない、今日会いたかった)と書き和尚に送りました。この今日会いたいが今日庵の由来となり、この障子紙は今日も今日庵に残っているそうです。茶を通して人格が火花を散らす親交から、私たちは学ぶことが多いと思います。この写真は表千家の門です。利休居士という字が見えると思います。この門から北に30メートルのところに裏千家の門が棟を並べて建っています。